SHAKESPEARE IN JAPAN

日本におけるシェイクスピア

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USING MY JAPANESE

「実はイギリス人は外国語がダメだ」というコンプレックス―現代イギリスの外国語教育制度と自身の日本語歴

プレゼンテーション ①

     30年前にイギリスの大学を卒業したばかりの私は、JETプログラムの外国指導助手 (ALT) として初めて日本へ来て以来日本語を学んでいます。佐賀県の私立学校に派遣され、最初から周りの日本人と日本語で話そうと強い意志を持っていたことに加え、JETプログラムもやはり大きな影響を与えてくれました。多くのJET参加者たちもそうだったでしょうが、私にも外国語歴があって、それは18歳までフランス語とドイツ語を学んだ訳で、当然日本語という難しい言語を熟達したいという野心を持ちました。
     佐賀でスクーターを買いましたが、スクーターに乗った私は掲示板に書いた名前などがだんだん読めるようになって大変満足を得たことを思い出します。例えば、私が一番最初に読んだ日本文学の作品は三島由紀夫の「愛国心」で、ある建物の壁に「愛国」という言葉が巨大な文字で落書きされていたことは何となく記憶に残っています。また、日本語の形容詞は英語とかなり違って動詞として変化することにとても興味を持ちました。「暖かかった」、そして佐賀では「蒸し暑か」と言いますね。
     1980年代後半はやはり国際化の時代で、ヨーロッパを始め世界の国々では日本語・日本文化のブームが巻き起こりました。佐賀での私の日本語の先生はご主人が本田技研で勤めていて数年南アメリカに駐在され、日本の産業界のレジェンドであった松下幸之助などの存在を認識し始めた頃、自惚れにも陰ながら日本の経済奇跡に貢献ができたかなと思いました。その頃偉大な大物歌手の美空ひばりさんも亡くなりましたが、私は佐賀の先生たちと一緒にスナックに行きカラオケを歌う時、カラオケの画面の日本語歌詞を読むのも日本語習得のとても楽しい学び方となりました。イギリスの学校と大学ではコーラス部に入っていましたが、日本の演歌の感情のこもった調は私の声に意外と合っていたみたいです。又、ここで告白しますけれども、私の曽祖父は19世紀末宣教師として大阪へ派遣されたことで、先祖が明治時代にさかのぼる日本との関係があり、しかも祖母は大阪で生まれたのです。そして、佐賀にいた時に覚えた歌の一つは大月みやこさんの「大阪ごころ」でした。この歌は曽祖父も確かに知っていただろう御堂筋とか難波のようなところを語ります。彼は日本語がかなり上手だったそうで、調をオクターブで下げると、自分の歌声にはぴったり合っていたと分かりました。
     JETの参加者として2年間を佐賀、そして1年間を東京で過ごした私は、後何か月間東京に残って日本語コースを受講したかったのですが後ろ髪をひかれる想いで、1990年にイギリスへ戻って北イングランドの名門シェフィールド大学の新しく開かれた日本語・日本学のマスターコースに入学することになりました。実はシェフィールド大学は、1960年代に政府が委託した報告書でイギリスの大学におけるいわゆる少数言語教育の拡大を促進された以降、日本学の中心校となっていますが、1980年代の日本語ブームと重なって日本語プログラムは全国の大学で盛り上がりました。私の日本語学習はもともとJETプログラムが促進したコミュニケーション方法論によって後押しされた学習に対して、シェフィールドでは日本文法や翻訳を中心にした伝統コースを与えてくれたと言ってもいいです。当時はほぼ毎朝6時に起きて、教育漢字を覚えたり日本語文章の書き方の練習をしたりしましたが、秋学期になってからは日本の現代政治と社会についての分厚いテキストに沿っても勉強しました。一つは田中角栄とオイルショックについて、田中の名文句、例えば「真面目な話しをやめて浪花節を歌いましょう」等は印象深く記憶に残っています。
     シェフィールドでは教授たちやネイティブのインストラクターよりたくさん学んだのは言うまでもないことですが、少々悪い経験も時には有益になるという意味で、私はこうした好ましくない経験もここで伝えたいと思います。1992年の始めに、イングランド中部のダービー市の近くにトヨタ自動車がオープンしたばかりの工場より連絡があって、それは日本から訪問するエンジニアのための通訳のお願いでした。2日だけの仕事でしたけれども、仕事の前の日にエンジニアが工員たちに説明する機械の部品名の日本語単語が載っていた50ページぐらいのマニュアルが郵便で届きました。そんな長いリストを一日以内に覚えるのは無理でした。次の日に風邪をひいて、のどがひどく痛くなった具合で、自分の車でダービーまで運転していた時、工場まであと一マイルという所で故障してしまいました。(付け加えると、その時の車はトヨタではありませんでした。)私の後ろから着いて来ていた日本人社員は私の車を一緒に道端に押しやって、工場まで乗せてくれましたが、もう既に1時間遅れていて、その日本人エンジニアは私が知っている自動車技術の日本語より英語の言葉をよく知っていると私はすぐに分かりました。こうした屈辱の2日間が経ってから、実は私には日本の経済奇跡に何も貢献することができなかったと思いましたが、トヨタの地元のスタッフはとても親切だったし、もうちょっと頑張ったらトヨタにも就職できたかもしれません。更に、私は以前からあまり通訳の仕事はしたくありませんでしたけれども、この失敗は日本語でスピーチをするなどの日本語冒険に挑戦するような動機となりました。
     この度振り返ると、私が初めて日本語を習った経験はかなり有益であったし、1980年代のイギリスは日本より多くのことが学べると思っていた私も「日本人の考え方」を何とかして真似たいと思った次第で、自然な日本語の喋り方ではなくて自分には無理な話し方を求めていた気がします。日本の文化を信じられないほど具象化してしまいました。しかし、私がやがて分かってきたのは、もっとも刺激されるのはやはり日本語の音やリズムですが、佐賀やシェフィールドで使った教科書などの文章や文型は必ず朗読して、自分が日本語で話す声を楽しみながら何時間も繰り返したものです。また、10年前に東京で韓国語を習い始めた時も同じような経験がありました。1997年に母校のオックスフォード大学へ戻って、シェイクスピア劇の日本語翻訳を専門とする博士課程に入学したら、日本人の翻訳者がシェイクスピアの音を日本語にどのように伝えるかという課題に興味を持ちました。もちろん翻訳者の綺麗な言葉遣いは日常会話よりかなり高尚なので、私が話す日本語は程遠い能力のような気がしましたが、実はその基本的な単純日本語から翻訳に役立つものもあったように思います。シェイクスピア翻訳は言語のルールと同じく原作が優位となるから、同時に読書たちや観客に対して非常に修辞的な目的を果たすという意味で私の日本語習得歴ともよく似ていると思われます。
1997年以後の日本語習得は、個人的で職業的な目的は両方あります。個人的な目的と言えば、日本人程に自由自在に漢字を使いこなしたい夢を持っています。ということで、漢字を出来るだけパソコンを使わないで手で書きたいですので、2008年に漢字検定を受験し始めました。2008年に8級を受けた試験場は7・8歳ばかりの小学校の教室のようでしたけれども、去年準2級を神戸市立外国語大学で受けたとき、一緒に受験した高校生と社会人と年相応のレベルに近づいたと思いましたが、私は落ちてしまいました。今現在50歳を超えた私は、漢字検定準2級以上の試験合格をするための必要な知識が吸収できる頭脳を持っているかといえば大変疑問に思っています。
     関西学院大学という職場で、私は例えば教職員や学生たちに日本語のメールを書いて送ったり、日本語で行う会議に出席したり、とりわけ学生たちに日本語で指示や説明をしたり、自分の下手な日本語を毎日使わなければなりません。こうした仕事上の学び方と正式な日本語レッスンの間の大きな違いは、やはり自分のニーズやプライオリティが日ごとに変るし、日本語を大勢の人より学んでいます。私にとっての一番困難なことは二つあるかもしれません。第一は、特に口語から敬語へ変えるという言語レジスターの返還ということです。第二は個人発言の文脈と骨子を掴むことでしょう。日本語の言葉は普通に一語一語として大体理解できますけれども、日本人の相手が実際に言いたいこと、或は相手によってどのように反応、又は適切な対応をするべきかと迷うこともあります。現代英語で lose the plot 「筋を誤解する」という表現はありますが、私の場合は「筋を誤解する」だけではなく、時々初めから筋、例えば議題の要点さえ分からないのであります!この問題は、西洋人の線形論理と違って、日本人の所謂循環論理とは何となく関連しているのではないかと私はよく考えます。兎に角、大学でイギリス文学を教える私は、例えば1時限に教えたシェイクスピア作のソネットの素晴らしい説得力のある論理と日本の典型的な町や大学キャンパスの流れの「ずれ」を経験することはあります。
     どの言語も同じだと思いますけれども、日本語という言語は、主に人間関係に関わっていて、日本語が持つ外国人初心者にとって異様に思える文化的な価値が明らかになります。私がいつも日本の文化について言うのは、70%は普遍的なものであるから良く分かるのですが、残りの20%は理解に苦しむ、しかし努力をすれば理解しえますが、最後の10%は全く理解できなくて無視すれば良いものと諦めていいものか悩みます。言えることは決して非難している訳ではなく違いを述べたまでです。今までの人生の3分の1を日本で過ごした私は、自分のナショナル・アイデンティティが前からそんなに変わっていないと思いますが、日本人と日本語を話すとき、自分がちょっと「変」に思われる立場を取ることもある一方、その態度が自分の大切なアイデンティティにほとんど傷つかないというような共有空間を想像します。こうした共有空間の中、もちろん自分の年齢や性別も関係しています。
     しかし、学生や同僚たちはよい日本語を示してくれるもたくさんあります。東京の学生たちが教えてくれた表現の一つは「何となく」ですが、誤った前提をする傾向がある私には、「何となく」という表現は教室の話し方を少し丁寧で、又率直でないようにする効果があると思いました。もう一つは学会の知り合いより学んだ「思われます」という表現です。これも、私が使いすぎる第一人称名詞「私」、そして「私は思います」とか「自分」というような自己中心の日本語より柔らかい言葉遣いでしょう。
     結論に移りますと、日本語習得によって人格的同一性が損失されるべきではありません。又、私の日本語習得はイギリスの青年時代に得た外国語や9歳からやっているクラリネットでの音楽能力に基づいている気がします。そして、実際に自分のアイデンティティを強調していると言ってもいいです。しかし、皆それぞれの個性や自分たちのナシオナル・アイデンティティが当然様々な問題や矛盾を起こしてしまうとしたら、外国語の学習はもちろんそうした問題や矛盾から逃げるための非常に有利で楽しい方法になれるという点も主張したいです。単に言えば、日本語学習を通して新しいペルソナを採用して、どのような人になれるかと想像発見するのは楽しいのではないかと思います。

プレゼンテーション ②

     唐突ですが、必ずしも冗談ではないと思いますが、イギリス紳士が海外へ行く際、彼らは地元の言語を習うこともなく、ただただ英語を話し続けて、声を高めるだけでみんながすぐ理解してくれると言われています。この神話は、昔の大英帝国主義時代に、英語が植民地の諸言語より勝っていたことを主張していたことを思い出させるかもしれませんが、私の母方の祖父は20世紀前半駐インド英国陸軍の大佐を勤めた時兵隊たちと一緒に必ずヒンディー語で話したそうです。ところで、ヒンディー語は現在世界で4番目に最も話されている言語となっているそうです。ヒンディー語の第一言語利用者4億3千8百万人に比べて、2番目の英語とスペイン語は各5億人ですが、1番目の中国語は8億9千9百万人となります。
     ただ、過去の言語帝国主義に代わって、グローバル言語になった英語がその優勢を維持し続けようというような漠然とした仮定が聴こえるようになりました。グローバル言語の英語はサッカー監督や飛行機内アナウンスなどですが、各言語利用者数の統計が示す通り、英語を第一言語とする利用者たちは世界人口の中で、英語が第二言語でない人に分かってもらうのは難しいものです。20年前までイギリスの植民地であった香港の現代では人口の半分もは英語が話せないと計算されています。
     しかし、イギリス人は外国語が苦手という評判があること、多くのイギリス人は学校でフランス語を勉強しても大人になったらあまり外国語を話したがらないこと、また多くのイギリス人は外国語の学習を特に自国語の英語のうまいコミュニケーション能力に比べて時間の無駄遣いのように見做していることは否定できません。もちろん、英語もそもそも我々イギリス人によって「難しい言葉」として考えられています。イギリスの外国語履修者たちが経験する偏見の一つはきっと、世界では盛んな翻訳・通訳職業を除けば、外国語なんてめったに意味のあるものでないと見做されていますから、しかし実は販売やマーケティングなどの売れる能力と共に活用されなければなりません。それもやはり外国語の利点にもなりますし、政府も推奨している事実もあります。
     イギリスにおける外国語のマイナスイメージは多分マスコミの所為であって、多くのイギリス人は実際に職場でも自宅でも外国語を使う事実を隠してしまいます。始めにイギリスの国外居住者4・5百50万人はいますが、その中の38万人はスペイン居住、17万人はフランス居住、そして2万3千人は日本に居住しています。もちろん、多くの国外居住者のイギリス人は居住国の言語を話さなくても何とかやって生けられますけれども、スペイン・アンダルシア地方の公立学校に入学している赴任のイギリスの子供たち8千人程は学校でスペイン語で話さなければならないのは事実です。毎日イギリスの新聞をインターネットで調べる私にとって、イギリスの政治家があまり外国語でインタビューなどをしたがっていないことを思う一方、他方にルクセンブルク出身のジャン=クロード・ユンケル欧州委員会委員長とかポーランド出身のドナルド・トゥスク欧州理事会議長が頻繁にイギリスのマスコミに出るとき、必ず流暢で洗練された英語で話すことに私は脱帽します。しかも、イギリスの大学で勤めている教員たちの約28%は英語を母語としない国の方で、また博士課程在籍学生の14%も同様です。
     欧州連合が実施した調査によると、全イギリス人の中の38%は英語以外の言語で会話をすることができることに比べて、フランス人の51%、ドイツ人の66%、そしてオランダ人の94%はこうした語学能力をもっています。更に、イギリスでは16歳で一般教育試験 (General Certificate of Education) で外国語の試験を受ける学生数は、2002年は全受験者数の76%あったのが、2015年は48%程に減り、18歳に上級課程 (Advanced Level) で外国語試験を受験する学生数も3分の1ぐらいに減少したこともイギリス人が外国語の悪評と並んで揶揄される所以とも言えます。また、大学進学は上級課程試験に合格するための理由で、実際大学で外国語を専攻する学生数も減っているのも心配なことです。
     しかし、「イギリス人は外国語がダメだ」という立場に対して、私が今日主張したいのは、現在イギリスの外国語教育政策の実用主義ということです。特に、100年後の2117年に世界中でみんな英語を話すという想像、予測はありえないし、又望ましくないものだと思われています。次に学校の外国語教育は徐々に伝統のアカデミック・スタイルより実技中心の教育方法への移り替わり時期としても明らかです。
     近年の主要な改革は2014年に実施されましたが、15・6歳のレベルで外国語が必須科目となっていたことが廃止され、8歳から11歳のレベルで外国語が必須科目として紹介されたということです。言い換えれば、イギリスの子供たちは現在8歳から外国語の勉強を始めますが、これは授業の教え方や内容には様々な影響を及ぼします。先ず、学校は(日本語も含めて)大体どの外国語でも教える自由をもっています。フランス語はやはり一番人気がありますが、近年スペイン語の人気は拍車がかかっています。南アジア系の学生たちが多い学校、例えばバーミンガム都心部の学校はヒンディー語やウルドゥー語の授業もあります。
     イギリスのビジネス・リーダーや政治家の立場では、もちろん英語がグローバル言語となった地位が国の利点であり、更には国の経済にも悪影響を与えないこととされてきたので、イギリスの企業にとってもっと国際競争力を高めるのは外国語という無形の能力なのであります。あるビジネスマンによると、「商品を購入するために英語は結構ですが、自分の商品を海外で販売するためには不十分です。」つまり、イギリスの社員たちは海外市場で流行っている言語が話せないから、会社は出遅れてしまう懸念はよく言われています。
     文化と経済上のライバルであるフランスとドイツの言語は19世紀以来、イギリスの学校で教えられている主な外国語ですが、私も学校でフランス語とドイツ語を勉強しました。19世紀のビクトリア女王はお母さんがドイツ生まれで、ドイツのプリンスと結婚しました。21世紀のイギリスにとっては、ドイツがヨーロッパの中で主な輸出市場ですが、ドイツの低賃金の従業員でさえ英語がうまく話せるので、ドイツで取引するイギリス社員はドイツ語を学ぶ必要がそんなにないと言われています。ブリティッシュカウンシルが2014年に出した報告書によると、「将来に向けて」イギリスが一番必要な外国語はフランス語とドイツ語ではなく、実際にスペイン語とアラブ語と発表しました。
     国の外国語ニーズと経済的要因などといった「レトリック」は、イギリスの学校における外国語学習の汚名に対抗できるように役に立つでしょう。9歳でフランス語とラテン語を勉強し始めた私は、外からの刺激が少なく、しつけが厳しかったプレパラトリースクール(私立小学校)という環境でした。1980年代からとても人気となったLL教室やらフランス修学旅行はありませんでしたけれども、フランス語の先生はオックスフォード大学卒業で、暗記学習を楽しくする技術をお持ちでした。小学生時代をバラ色の眼鏡で思い出すと、最近の新聞記事であった若い世代のフランス語学習の経験とちょっと違うかもしれません。それでは、現代イギリスにおける外国語教育の現状として、ある若いフランス語の先生の経験について聞きましょう:

外国語を本当に習得するのは何年もかかる大層な作業です。現代の人々は即席の結果や満足を欲しがる傾向がありますから、わざわざ努力する気になれませんね。私がフランス語をペラペラになったのは11年かかりました。

この恩師は、恐らく11歳にフランス語を必須科目として始めてから、16歳にフランス語の一般教育試験、そして18歳はフランス語で上級課程で受けて、ついには大学でフランス語、或はヨーロッパ領域研究という関連科目を専攻したのです。実際、高校の時に十分なフランス語の基礎を得た上、フランスで留学やホームステイをすることができたこの先生は、大学一年生になって初めてフランス語の真の達人になれるような気がしたのだろうと思います。
     それに比べ、私は18歳のときフランス語を上級課程で受験して、試験のシラバスの中で20世紀フランス文学も勉強しましたけれども、フランス語の口頭試験が実際にフランス人ではなかった面接者によって行われたので、9年間勉強したと言え、私は本当のフランス語が話せたのかと疑問に思ったことを思い出します。大学でイギリス文学を専攻しましたから、せっかく習ったフランス語とドイツ語は怠けてしまいました。これは少し勿体ないことをしたと思い、21歳で日本語を初めて習ったことはかなり大きなモチベーションになりました。しかし私の場合、今もフランス語とドイツ語は読め、フランス語はまあまあ話せます。しかし、ドイツ語は5年間しか勉強しませんでしたから、あまり話せません。
     イギリスの学校で外国語教育の理論的な根拠は、例えば学生たちの大部分がフランスのカフェで飲み物が注文できるぐらいのフランス語を習得すれば満足で、ネイティブになるために努力する学生は少ないでしょう。先程イギリス人は外国語が苦手なのだからイギリスの会社が海外の競争に負けてしまうという政治的な懸念を取り上げました。私は第二言語でも国際ビジネスでも専門家でもありませんが、読む、書く、話す、聴く、そして異文化理解という五つのコミュニケーション能力を、例えば大学でスペイン語を専門とした、イギリスの会社で働く若者がメキシコ支店に赴任したらどんなことが想像できるでしょうか。若者は以下の仕事ができると私は期待したいでしょう。(メキシコはイギリスの経済政策が標的となる所謂新興市場国です。)

     1. 地元の新聞に載る経済ニュースが読めること
     2. 地元のスタッフやお客さんにメールが書けること
     3. 地元の営業職員に新着商品についてのプレゼンテーションができること
     4. 地元法律事務所のアドバイスを会議でも電話でも理解することが可能
     5. 地元の消費者の文化的な背景を元に適宜対応することができること

     野心のある高校生はこうした能力を身に着けたいと日々努力しているでしょうが、どのような意思であっても外国語の豊富な語彙や複雑な文法を一晩に覚えるのは無理でしょう。10代の外国語学習の難点は、ネイティブのように自然に習得する小さい子どもとは違いますが、集中力が増します。そして、外国語習得は引き続き、成人からも学べるものです。つまり、10代の学生は最早小さい子どもの言語習得能力もなければ、大人の集中力程はまだ発展していないということです。それ故、イギリスの中学生がフランス語やスペイン語の勉強よりソーシャルメディアの方が好きなのはそんなに驚いたことではありません。恐らく、イギリスは外国語教育の開始年齢を11歳から8歳まで下げようという政策決定は若者の言語能力をもっとも習得しやすい幼稚期と同様にしたいためだからです。カナダのイマージョン・プログラムは有名ですね。小さい子どもは6歳まで楽々とどの言語も習得できると言われていますしね。それでは、最後に今の若者たちが大人になった時、彼らは外国語で話すにあたり、我々の世代より自信に満ちたコミュニケーション能力が更に獲得されればと望まれています。つまり、彼らは私の世代より同年代のフランス人やスペイン人や他の外国人と流暢な会話が始められるように教育されれば良いでしょう。オランダ人とオランダ語で話すのは一緒無理かもしれませんけれども。。。
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